雨夏ユカリの趣味ノート

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呪術廻戦31話・真人編終了。「正しい死」は虎杖の根幹をなす哲学なんだなと改めて思う(週刊少年ジャンプ感想/2018年46号②)

呪術廻戦

 

限りなく透明な殺意をもって、表現が難しい表情で真人にとどめを刺すことを試みる虎杖。限りなく透明な殺意ってすごい言葉だなと思いつつも、単に駆け引きとかを考えない殺意ってだけじゃないんだろうなと思った。

 

虎杖の表情からは、順平とかほかの人々に無残な死を遂げさせた怨敵への恨みが感じられない。そこがちょっと不思議に思って考えてたんだけど、これは虎杖が「祓う」という表現じゃなく「殺す」という表現にこだわり続けていることと関係があるのかもしれない。

 

虎杖は最後に「正しい死に様なんて分かりゃしない。ならせめて、分かるまで、アイツを殺すまで、もう俺は負けない。」と言っている。最後まで「殺す」という表現にこだわり続けている。

 

これはたぶん、虎杖の「正しい死を迎えさせる」という信念によるものなんだろう。虎杖にとって真人は「報いを受けて死ぬ」ことが正しい死だと思っている。そして、正しい死を与える人間として、真人に「正しい死」を与えることが自分の使命だと思っている。

 

だからこそ、「祓う」という表現ではなく、「死」という言葉に結び付く「殺す」という表現にこだわり続けているんだろう。

 

そして、虎杖の中では真人に対する恨みとか憎しみは戦いの中で昇華されて、「殺す」ことが自分の使命だと思うようになったんだろう。だからこそ、とどめを刺すときに憎しみの表情はいらなかったし、「祓う」ではなく「殺す」という表現にこだわり続けいている。

 

 

でもなんとなく、ここには虎杖の危うさがあるような気がするんだよなあ。つまり虎杖はいまだに「呪い」に対して「人格」を認めているってことなんだろうなと思える。ななみんとかは「祓う」という表現を使っていて、呪いと人間は別物という意識を根底に持っているのだけれど、それが虎杖にはない。

 

その感覚がどこかで足を引っ張るんじゃないかなと思えてしまうんだよなあ。

 

 

あとは、ななみんの虎杖の信念に対するコメントはすごくよかったな。すごく「彼らしい」コメントだった。

 

実際、「正しさ」ってどういうものかを考えるのがすごく難しい。何をもって正しいとするかなんて、そんなの神ですらない人間にわかるわけがない。だから、必死に悩んでも答えなんて出て来やしない。

 

ななみんはそれがわかっているけれど、虎杖がそこに命を懸けていることもわかってしまっている。だからこそ「君を必要とする人間がこれから大勢現れる」と伝えたんだろうな。

 

これは死に際ですら「多くの人に感謝をもらった。悔いがない」と言い切るななみんらしいセリフで、ああこのキャラクターは自身の哲学をもって生きているんだなと思わせてくれるよい言葉だった。

 

こういう細かい積み重ねが、呪術廻戦の魅力的なキャラクターを作り出しているのだろう。

 

 

今話で真人戦終了。今章は呪術廻戦世界の呪いと救いがしっかりと描写されている章だった。

 

どんな善人ですら無残な死を遂げることはあり、それは「キャラクター」としてしっかりと描写された人物でも例外ではない。そういった呪われた世界を描写しながらも、同時に「悔いはない」といって死ぬことができるようなそんな呪術師もいるのだという救いや、ななみんが生存するという救いをも描いた。

 

この、1章かけてしっかりと描写した、呪いと救いが混在する世界は呪術廻戦の大きな魅力になっていくんだろうなあ。