アクタージュ44話・アキラ君は私たち凡人のヒーローなんだな(週刊少年ジャンプ感想/2019年1号)
アクタージュ
アキラ君がついに「こうすべき」から抜け出して自分の言葉を語り、それによってカムパネルラたちが輝き始める。
アキラ君の成長が、どうしてここまで心に刺さるんだろうかと疑問だった。
その疑問に答えを出すヒントを、西京BOYさんという方がブログに書いていたので、彼の言葉を引用したい。
しかしこの漫画、
とことんまで哲学的でとても少年誌に載ってる漫画とは思えないくらいの読み応えがありますね・・・笑
た、確かに。
今まで私はアクタージュの演出面にしか目を向けてこなかったけど、確かにこの作品は哲学的だ。演劇の台本が宮沢賢治だし。そう思って改めて今週のジャンプを読んでみると、さっきの疑問に対する答えが私の中で出た。
アキラ君は我々「大多数の読者」そのものだったんだ。
アキラ君は「自分に演技の才能がない」ことを自覚している。それだけじゃなく、天才たちがいる場所に立てないことを後悔することすらできていない。
彼はすごく凡人なんだよな。それ故に私たち大多数の読者なんだよな。
我々は「何か」をやっていたとして、その時にその頂点にいる人たちに対して「私がもっと努力していれば、あそこに立てたかもしれないのに」なんて思ったりはしない。後悔することすらできない。まあ、あの人たちは自分とは違う人間だし、で終わらせて何も感じたりしないだろう。
それに、先週言っていた「何々すべき」という話についてもそうだろう。我々は人生において常に「こうすべき」に縛られ続けている。
「良い大学に進学すべき」「良い企業に就職すべき」「学校に行くべき」「他人とはうまくやるべき」……こういった大きな「何々すべき」だけではなく、例えば「テストにはこう書くべき」「恋愛はこうするべき」といった小さな「何々すべき」にとらわれ続けている。
そして、アキラ君が言っていたように、そういった「何々すべき」という「正しい答え」を知るのが、努力なんだと思っている。
アキラ君が今週、即興劇に対して「怖い」という印象を持っていたのも、そういうことなんだろう。
我々だって同じだ。こういった「何々すべき」があるから安心していられる。もしこの「何々すべき」がなくなってしまったら、それはもうすべてを自分で考えて見つけなければいけない。そんなのを「怖い」と思うのは当然だ。
人の視線を慮る部分だってそうだ。アキラ君にとっては「観客」だったそれは、私たち読者にとっては別のものだ。それぞれの人々によって違うだろうけど、それは両親だったり友人だったり恋人だったり先生だったり子供だったり妻だったり上司だったりする。我々はそういった人たちの目を意識して、彼らに非難されないように「こうすべき」ことをやり続けている。
私は、マツキタクヤ先生と宇佐崎しろ先生は、こう問いかけてきているように思える。「君たちにとってアキラはただの物語の登場人物じゃない。彼は君たち自身だ。『こうすべき』に囚われて、周りの目を気にして、自分の本当の美しさに気づいていないのは、君たちではないのか? アキラは踏み出したぞ。君たちはどうする?」と。
アキラ君が「こうすべき」も「周りの目」をも投げ出して、自分の気持ちに目を向け、そして輝いた姿に、多分私は救いを感じたんだと思う。そういったものを投げ出した先にだって、「何かいいことがある」というメッセージを感じたから。
だからといって、じゃあすぐにアキラ君のようになれるかというと話は別なんだけれど。それでも、そこを目指してみようと思うことはできるかもしれない。
アクタージュはすごく哲学的な作品だった。そういう読み方をすれば、もしかしたら今までの話にも新しい発見ができるのかもしれない。本当に今週はすべてのピースがつながる美しい回だった。